雲谷等顔(天文十六年(1547年)~元和四年(1618年))を御存じだろうか。 毛利輝元の保護を受けた立派な雪舟の後継者なのだ。輝元は雪舟の絵を好んだので、等顔の才能を見込んで、雪舟のアトリエ「雲谷庵」(山口市)と「四季山水図(山水長巻」(国宝、毛利博物館蔵)を与え絵画制作に励ませた。その甲斐あって、等顔は立派な雪舟の後継者となった。
輝元は、関ケ原合戦で西軍(豊臣方)の総大将となり、御存じのとおり負けてしまう。そこで、輝元は出家を決意し、毛利家は大徳寺黄梅院の檀家となるのである。
そこで、大徳寺と毛利家の縁は深まるのだ。等顔は寺を飾る襖絵や掛け軸のたぐいをたくさん描いている。賛を書いた玉室宗珀は、江戸時代の初めに大徳寺の僧の頂点である住持を務めている。賛の内容は、インドから禅宗を中国に伝え広げたことをたたえる内容になっている。